福島の緑深い高原を想像させる歌謡曲『高原列車は行く』には、実は「沼尻軽便鉄道」がモデルとして深く関わっている歴史があります。かつて「マッチ箱」や「豆汽車」と愛されたあの列車がどのように歌詞や人々の心に映ったのか。そして鉱山鉄道としての始まり、旅客輸送への展開、廃止に至る経緯まで。本記事では歌と鉄道のクロスオーバーを通して、沼尻軽便鉄道の姿を昭和から最新情報まで丁寧に解説します。
目次
沼尻軽便鉄道 高原列車は行く のモデルとしての鉄道の概要
沼尻軽便鉄道は、かつて福島県猪苗代町に存在した軽便鉄道であり、硫黄を搬出する鉱山鉄道として始まりました。大正2年(1913年)に「日本硫黄耶麻軌道部」として、川桁駅と沼尻駅を結ぶ路線が開業しました。軌間は762ミリで、全長約15.6キロメートルのナローゲージ。貨物輸送が主であり、鉱山で採れる硫黄の輸送が鉄道の大きな使命でした。
旅客輸送も行われ、「マッチ箱」や「豆汽車」と愛称される小型客車が沿線住民や湯治客、スキー客を運びました。日常の足としてだけでなく、高原風景を求める人々にとっての情緒としても親しまれた鉄道でした。歌詞のモデルとしてもこの鉄道が明確に意識されています。
起源と運行形態
当初は硫黄鉱石の輸送を目的とした馬車軌道として始まった路線は、後に蒸気機関車を導入し貨物輸送能力を強化しました。馬車時代からコッペル社製の蒸気機関車が走るようになり、軌道は貨物主体の運行体制でしたが、旅客列車も徐々に併設されていきました。軌間は762ミリの軽便鉄道規格で、日本全国で使われていた軽便鉄道の典型例とも言えます。
定期的な旅客輸送は景勝路線とは言えないものの、沿線住民の日々の移動や、温泉・高原観光客の利用があったなど複合的な役割を果たしていました。特に冬期や農閑期にも人の往来があり、地域の文化と生活に根ざした鉄道となっていました。
全長・距離・設備的特徴
路線の延長は約15.6キロあり、川桁駅から沼尻駅を結んでいました。沿線には11駅が設置されており、かつて鉱山や温泉地へのアクセス手段として使われていました。路線の勾配は急勾配な区間があり、傾斜は40パーミルにも達する箇所が存在していたため、列車にとっては過酷な環境でもありました。
車両はナローゲージの小型客車が中心であり、蒸気機関車牽引の客車列車が使われ、ガソリンカーも導入された時期があります。電化は実現せず、「電鉄」の名を冠した最後の社名でも電車は走りませんでした。
鉱山輸送と旅客輸送のバランス
この鉄道の主目的は鉱山からの硫黄輸送であり、貨物が主力でした。旅客輸送は付帯的な役割で、沿線住民や観光客の移動手段として利用されましたが、貨物輸送の収益が鉄道の存続にとって極めて重要でした。
しかし、鉱山閉山や貨物輸送量の減少、そして道路交通の台頭により貨物収入が激減し、旅客輸送だけでは経営を支えることが困難になっていきました。このようなバランスの変化が存続の危機を招くことになりました。
高原列車は行く 歌詞に描かれた車窓と象徴的風景

『高原列車は行く』の歌詞には「牧場の乙女」「白樺林」「五色のみずうみ」といったイメージが散りばめられていますが、これらは沼尻軽便鉄道の沿線で作詞家が幼少期に見た風景がモチーフとなっています。自然あふれる高原風景と汽車旅の情緒が、この歌詞を通して東京から遠く離れた土地の情景として聴く人の心を捉え続けています。
この歌は昭和のヒット曲であり、多くの人に歌い継がれ、教科書や発車メロディにも採用されることで地域の象徴的な存在となっています。福島県出身の作詞家と作曲家による故郷への想いが歌詞に込められており、単なる観光の歌を越えて人々の心に根づく名曲です。
歌詞の自然描写とそのモデル
歌詞内の「明るい青空」「白樺林」「五色のみずうみ」などの風景描写は、猪苗代・裏磐梯地域や沼尻鉄道沿線に見られた高原・湖沼・森林の景観がモデルです。特に五色沼は磐梯山の噴火とその後の自然変遷を経た複数の湖沼群で、雨や季節によって色を変える様は「五色のみずうみ」として歌われています。
また「温泉の宿」という描写には、横向温泉などの沿線温泉地が想起されます。鉱山鉄道としての実用事業と旅情的な要素が混じり合って、風景の叙情性が強調されています。
歌唱と文化的受容の広がり
作曲家が故郷で培った旋律は、高原列車という明るく朗らかなテーマに非常に合致しています。戦後間もない時期に発表された歌であるにもかかわらず、生き生きとした自然と旅の楽しみが込められており、広く受け入れられました。今も教科書や学校音楽で歌われることがあり、福島県では駅の発車メロディとして採用されている場所もあります。
また、ドラマや地域イベントで歌われることで、若い世代にもこの歌が意義を持って受け継がれており、音楽と鉄道・地域の歴史が融合した文化的資産となっています。
沼尻軽便鉄道 の経緯:開業から廃止まで
沼尻軽便鉄道は1913年(大正2年)に開業しました。初めは馬車鉄道として硫黄鉱山からの輸送を目的としており、貨物用の馬車軌道が設置されていました。その後、蒸気機関車を導入し、軌間は762ミリに改軌されました。運行は貨物輸送主体ながら旅客も運ばれ、昭和20年には地方鉄道に変更され、「日本硫黄沼尻鉄道部」という名前で運行されるようになりました。
しかし、昭和30年代に入ると鉱山の閉山や貨物輸送量の減少が顕著になりました。1964年には「日本硫黄観光鉄道」と名を改め、旅客輸送の拡大を図りました。さらに1967年には「磐梯急行電鉄」と社名変更され、「電鉄」の看板を掲げたものの電車化は実現しなかったということです。最終的には1969年に廃止され、運行は終了しました。
社名の変遷と組織構造の変化
社名は時代ごとの事業転換を反映しています。開業時は馬車軌道として「日本硫黄耶麻軌道部」、次に蒸気・貨物主体の鉄道として「日本硫黄沼尻鉄道部」、そして観光を意識した「日本硫黄観光鉄道」、最後に「磐梯急行電鉄」と変化しました。社名だけではなく運営方針も鉱業・旅客・観光のバランスを模索したものでした。
しかし組織的・財政的なリソースの制約や、電化に必要なインフラ整備が実現できなかったことなどが、最終的な廃止の要因の一つとなっています。
閉山・廃止の要因と最終年
鉱山(沼尻鉱山)の閉山が始まり、硫黄の輸送業務が急激に減少しました。このことが貨物収入の大幅な減少を招き、旅客輸送だけでは収益を保てない状況になりました。さらに道路整備の進展および自動車交通の普及が人や貨物の移動手段として鉄道を圧迫しました。
こうした複数の要因により、鉄道は1969年に廃止されました。運行開始からの歴史はおよそ56年に及び、人々の暮らしや歌の中にその名を刻みつける鉄道としてその役割を終えました。
現在の保存・展示と観光資源としての位置づけ
廃止後もその歴史は消えることなく、現在は保存された車両や線路跡を通じて観光資源・地域文化資源として扱われています。川桁駅前には鉄道記念碑があり、「猪苗代緑の村」では静態保存された客車(動かない状態ですが自由に乗車可能なもの)を展示しています。訪れる人が鉄道の実物を身近に感じることのできる貴重な場所となっています。
また、廃線跡を歩くウォーキングイベント「いなわしろ軽便ウォーク」が開催されており、参加者は沿線の自然や温泉を味わいながら、かつて鉄道が通った道を辿ることができます。このような形で、鉄道の跡と歌の情景を重ね合わせて感じる体験が提供されています。
展示車両と記念施設
保存車両は猪苗代町の緑の村に展示されています。客車は自由に乗車できるようにされており、車両内部を見て当時の雰囲気を体感できるようになっています。展示は動きませんが、鉄道を愛する人々や歴史に興味がある人々にとっては非常に貴重な存在です。
廃線跡歩きと自然・観光との融合
線路跡を活用した歩道が整備され、景観を楽しみながら当時の鉄道ルートを体験できるようになっています。沿線の温泉、自然風景、湖沼などが徒歩ルートとして紹介されており、地域の観光ツールにもなっています。特に高原や温泉を目当てにする観光客にとって、歌詞と同じ景観を追体験できる要素が大きな魅力です。
沼尻軽便鉄道 と 高原列車は行く の関係性を振り返り比較する
沼尻軽便鉄道という実在の鉄道と、歌謡曲『高原列車は行く』が描く高原鉄道の情景には密接な関連があります。歌の作詞を手がけた丘灯至夫は、少年期に家族で温泉に向かう際に沼尻鉄道に乗った体験などを思い出して詞を書いたという証言があります。その一方で、作曲家側は「アルプスの高原鉄道」のイメージも少なからず取り入れたと考えられ、歌詞とメロディの双方が実体験と憧憬の融合によって生まれました。
モデル鉄道としての具体性と、歌詞の中の抽象的で普遍的な旅情との融合が、聴く者に情景を想像させやすくしています。沼尻鉄道の沿線風景、列車の音、温泉・湖・森のイメージなどが歌詞の中に落とし込まれ、地方鉄道のノスタルジーと地域の記憶を呼び覚ます歌として位置づけられています。
実体験と憧れの風景の融合
歌詞中にある牧場、山越え谷越え、五色の湖などは、作詞者が実際に見た沼尻鉄道沿線の景色に加えて、高原風景への憧れを重ねたものです。これにより聴く者の心に普遍性を持つ風景が浮かび、単なる地域の歌を超えて日本中に受け入れられる要因になっています。
鉄道としての制約と歌に映る理想
軽便鉄道であるため速度や設備面で制約があったにもかかわらず、歌では旅の快適さや爽やかな風景が強調されます。このギャップが理想化として働き、物語性と情緒を強くしています。急勾配や小型車両など現実の苦労があるにもかかわらず、歌では「高原列車」が持つ詩情や旅の喜びが中心となって描かれています。
まとめ
沼尻軽便鉄道は、かつての硫黄鉱山輸送鉄道として始まりましたが、旅客輸送を含めた地域の鉄道として人々に親しまれてきました。その線路の風景や列車の旅情は、昭和の名曲『高原列車は行く』に結晶し、今も歌と地域文化のあいだで息づいています。鉱山閉山、交通手段の変化などで鉄道自体は廃止されましたが、その記憶は保存車両や歩道、歌詞として残され、訪れる人々に風景を追体験させます。
もし高原列車の歌詞に胸がときめいたなら、沼尻鉄道跡を訪れてみて下さい。道跡を歩き、保存された客車に触れ、草木や風に包まれながら、歌詞で描かれた世界を自分のものとして感じられる場所がそこにあります。
下郷町ライブカメラ
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