福島県会津若松市にそびえる鶴ヶ城(会津若松城)は、白壁に赤瓦の天守閣が美しい名城です。東北地方では数少ない「赤瓦の城」として知られ、春には周囲に植えられた桜と相まって多くの観光客を惹きつけます。幕末の戊辰戦争では会津藩の本拠地となり、一ヶ月に及ぶ籠城戦が繰り広げられた戦場でもありました。この城には創建から戊辰戦争まで、何代もの城主や激動の歴史が詰まっています。この記事では鶴ヶ城の歴史を築城当初から戊辰戦争まで、物語形式でわかりやすく解説します。
鶴ヶ城の歴史をわかりやすく解説
鶴ヶ城(会津若松城)は会津若松市中心部の高台に位置する城郭で、東黒川に築いた初代城主葦名直盛から始まる歴史を持ちます。江戸時代には加藤氏や保科氏ら会津藩主が据えられ、幕末には会津藩の象徴として最後まで徳川幕府側で奮戦しました。築城当初から廃城・再建の近代まで、鶴ヶ城は会津地方の歴史と深く結びついています。まずは鶴ヶ城とはどのような城だったのか、その概要を見てみましょう。
鶴ヶ城とは何か
鶴ヶ城は別名「会津若松城」とも呼ばれます。城は会津盆地の扇状地の上に築かれ、周囲には堀や石垣が巡らされています。現在の五層天守閣は1965年に復元されたもので、天守台の石垣は江戸時代から残るものです。色鮮やかな赤瓦の屋根は近代に施工されたものですが、会津戦国期・江戸期に築かれた遺構の上に立つ伝統的な美しい城郭です。明治維新以降に一度は取り壊されましたが、昭和になって市民の要望で天守が再建され、赤瓦の天守閣が再現されました。
築城から戊辰戦争までの歴史の概要
鶴ヶ城の歴史は約600年前に遡ります。1384年(至徳元年)に葦名直盛がこの地に最初の館(東黒川館)を築いたのが始まりで、当初は「黒川城」と呼ばれていました。その後、戦国時代末期には常陸の大名・小田原の北条氏、武田氏と連携を強め南奥羽を支配した葦名氏の本拠となります。
1589年(天正17年)、戦国大名の伊達政宗が葦名氏内部の争いに乗じて会津に侵攻し、黒川城(鶴ヶ城の前身)は一時伊達氏の領地となります。しかし豊臣秀吉による奥州仕置により、1590年(天正18年)に蒲生氏郷が会津領主となり、城の再整備が始まりました。氏郷は1593年(文禄2年)に会津初の本格的な石垣と天守を備えた城を築き、城名を「鶴ヶ城」に改めました。この時から東黒川は若松と呼ばれ、城下町の基礎が作られました。
その後も上杉景勝や蒲生秀行など数代が城主となりましたが、1611年(慶長16年)の大地震で城に大きな被害を受けます。1627年(寛永4年)に加藤嘉明が会津へ入封し、城を大規模に改修して五層天守を整備、縄張(城の配置)を北向きに変更しました。この整備で現在の鶴ヶ城の基本的な構えが形作られました。
鶴ヶ城(若松城)発祥の地としての由来
鶴ヶ城が会津若松城と呼ばれる理由は、豊臣政権下で蒲生氏郷が若松の地名を名付けたことに由来します。氏郷は城下町の整備に際し、地名を故郷の近江(滋賀県)日野の若松から取って「若松」と定めました。また、城郭を築いた際に仙鶴(めでたい鳥)の飛翔を連想させる白壁と赤瓦の美しさから「鶴ヶ城」という名が与えられたと言われています。
会津若松という名称はこれ以降定着し、以後の城主たちも「鶴ヶ城」の名で城を呼ぶようになりました。このため地元でも城と城下町をまとめて鶴ヶ城(会津若松城)と称し、城下町を中心に街が発展していきました。
鶴ヶ城の特徴と魅力
鶴ヶ城の大きな特徴は何と言っても「赤瓦の天守閣」です。これは会津の冬の寒さに耐えるため特製の赤い釉薬瓦を使用したもので、全国でも鶴ヶ城以外に同様の例はありません(現在も鶴ヶ城天守だけが赤瓦葺です)。白い漆喰の壁と赤い屋根のコントラストは、城を一層優雅に見せます。また城址公園には約1000本のソメイヨシノが植えられ、日本有数の桜の名所としても知られています。
内部は博物館となっており、会津藩の歴史資料や戊辰戦争に関する展示を見ることができます。天守最上階の展望台からは会津盆地が一望でき、歴史と自然が調和した風景が楽しめるのも魅力です。これらの要素が重なり、鶴ヶ城は観光客だけでなく歴史ファンにも高く評価されています。
鶴ヶ城の築城と戦国時代

鶴ヶ城の歴史は、戦国時代における会津地方の覇権争いと深く関わります。最初に城を築いた葦名氏は会津の戦国大名であり、鶴ヶ城はその本拠地黒川(若松)の中心でした。
葦名直盛による黒川城の創建
1384年(至徳元年)、戦国大名の葦名直盛は鶴ヶ城の前身とされる東黒川館を築きました。当時は茅葺きの館程度の規模でしたが、上杉氏や武田氏と同盟を結んで勢力を伸ばし、会津の大部分を支配下に置くほどの強大な勢力となっていきます。城下には葦名氏を支える武士団や職人の町が形成され、文化人も訪れる城郭都市へと発展しました。
伊達政宗の会津侵攻
戦国末期の1589年(天正17年)、葦名氏内部で内紛が起こりました。これを機に伊達政宗が会津に侵攻し、葦名氏は敗北して会津支配を終了します。政宗は天領を経て会津を支配しますが、秀吉の下で従属を誓ったため、同年末の秀吉による奥州仕置では会津領は蒲生氏郷に与えられます。政宗の会津統治はわずか1年足らずに終わり、以後黒川は蒲生氏の領地となりました。
蒲生氏郷が築いた若松城
1590年(天正18年)、蒲生氏郷が会津領主として入封すると、城の大改修が始まりました。氏郷は1592年から3年がかりで城の石垣や天守閣を築き、「若松城」として城下町を整備しています(城名を鶴ヶ城に改称したのは天守完成の翌1593年)。氏郷は築城にあたって城下を美しく整備し、計16ヶ所の虎口(関門)を巡らせて防御を固めました。この総構えが後の城下町の基礎となり、現在でも当時の縄張(城郭配置)の一部が遺構として残っています。
江戸時代の鶴ヶ城と会津藩主
豊臣秀吉没後の慶長年間以降、会津一国は幕府の直轄領として上杉氏に任されましたが、1601年(慶長6年)の関ヶ原の戦い後に再び蒲生氏の領地となります。その後1627年(寛永4年)に加藤嘉明が封ぜられ、嘉明と息子の明成によって鶴ヶ城は江戸時代の姿に大規模改修されました。ここから江戸時代、鶴ヶ城は数代にわたり会津藩主たちの居城となりました。
加藤嘉明の大規模改修
1627年(寛永4年)、加藤嘉明が加増移封されて会津に入りました。嘉明は前述の地震で崩れた石垣を修復し、五層の層塔型天守閣を新たに建造するなど城を強固にしました。また本丸の周囲に西出丸・北出丸などの出丸を整備し、城の守備力をさらに高めています。この改修により、現存する鶴ヶ城の基本的な縄張りが固まり、木造で復元される現在の五層天守の土台が形作られました。
保科正之と会津藩の成立
嘉明の死後、保科正之(徳川三代将軍家光の異母弟)が1643年(寛永20年)に30万石で会津に入封しました。正之は松平姓(徳川家の一族)を許されて会津藩主となり、以後250年間にわたり保科(後に松平)氏が会津藩を治めます。彼の統治下で会津藩は江戸幕府の要職を担い、鶴ヶ城も大老職松平容保など優れた藩主を輩出しました。正之自身は赤瓦の天守を採用したことでも知られ、会津藩の礎を築いた名君として語り継がれています。
雪国の工夫:鶴ヶ城の赤瓦
当初、鶴ヶ城の天守閣には西日本で一般的だった黒瓦が葺かれていました。しかし江戸時代に入ると、保科正之の指示で厳しい冬の雪深い気候に適した「赤瓦」が開発され、天守と櫓の屋根に葺き替えられました。赤瓦には鉄分が多く含まれた釉薬が使われ、室内の暖まった空気を逃がしにくい断熱効果があります。この赤瓦が全国各地に広まりましたが、江戸末期の赤瓦の天守閣が復元された現代において、赤瓦の天守閣は国内で唯一鶴ヶ城だけの特徴です。
鶴ヶ城と戊辰戦争
1868年(慶応4年)、戊辰戦争が勃発すると鶴ヶ城は旧幕府側の会津藩の本拠地となりました。会津藩は京都守護職として朝廷と徳川幕府の調停にあたっていましたが、鳥羽伏見の戦い以降、新政府軍との間で対立が深まりました。7月には新政府軍諸藩による会津討伐が決定し、鶴ヶ城をめぐる厳しい攻防戦が始まります。
戊辰戦争の勃発と会津藩の立場
戊辰戦争では、会津藩は江戸幕府側で東国の主力を担いました。西軍(新政府軍)が東北方面に迫り、8月上旬に会津若松城下に進軍。会津藩は新政府への降伏を拒否し、城に立てこもる決断をします。この時点で城下には市民も避難し、白虎隊など若い藩兵士が編成されて城を守る体制がとられました。会津藩は最後まで武士の誇りを貫いたため、戦後は悲劇として多く語り継がれることになります。
鶴ヶ城の籠城戦:決戦の地
8月20日から始まった鶴ヶ城への包囲戦は、およそ一ヶ月にわたる死闘となりました。新政府軍は砲撃や烈火攻撃で城を攻め立てますが、鶴ヶ城の石垣や堀は硬く守りが堅固で、城は難攻不落の名を欲しいままにしました。ただし城下は焼け野原となり、多くの犠牲を伴う苦戦が続きました。会津藩は自刃や病死者が相次ぎ、資金物資も尽きたため、9月22日に降伏して城は開城となります。この籠城戦で鶴ヶ城は徹底抗戦の舞台として歴史に刻まれました。
白虎隊と会津の悲劇
鶴ヶ城の籠城戦とともに語られるのが、少年兵の白虎隊の悲劇です。白虎隊士たちは郊外から城下の戦況を見に来た際、炎上する若松城の姿を見てしまい、「城も町も落ちた」と誤認して集団で自刃したと伝えられます。この悲劇は会津戦争の象徴となり、今も城近くの飯盛山には白虎隊士の墓が残されています。鶴ヶ城はこのように会津藩士たちの切ない思い出とともに語り継がれています。
鶴ヶ城の廃城から再建まで
戊辰戦争後、会津藩は取り潰しとなり、鶴ヶ城も明治政府によって廃城とされました。1874年(明治7年)までに城内の建物はすべて取り壊され、天守は解体され石垣だけが残りました。その後長らく城跡は公園となり、1934年には国の史跡に指定されました。
明治維新後の鶴ヶ城
明治時代には鶴ヶ城が遺すものは石垣のみとなりました。当時の写真記録には、天守のあった場所に空き地が残る様子が写っています。戦前・戦後を通じて会津の人々は鶴ヶ城の再建を願い続け、昭和の時代になると動きが見られるようになります。
鶴ヶ城の再建:市民の想い
1965年(昭和40年)、市民の寄付や募金をもとに鶴ヶ城の五層天守閣が復元されました。これは明治期の古写真や図面に基づく外観復元で、当時は黒瓦葺の天守でした。1966年に完成した天守内部は会津若松城天守閣郷土博物館として開館し、会津藩ゆかりの資料や観光案内が展示されています。この再建は市民の郷土愛によるものであり、鶴ヶ城は会津復興のシンボルとして市民に親しまれました。
赤瓦復元で復活した天守閣
平成23年(2011年)には天守閣の屋根瓦が従来の黒瓦から幕末当時の赤瓦へと葺き替えられました。この工事により、江戸末期の姿を再現した天守閣が完成し、鶴ヶ城は全国で唯一の赤瓦葺の天守閣となりました。さらに2012年~2013年には耐震補強工事と展示内容のリニューアルが行われ、2013年には新たな観光名所として改めて公開されました。最近では2023年4月に耐震補強と展示刷新を終えてリニューアルオープンし、最新の展示が楽しめる施設となっています。
桜の名所・鶴ヶ城公園
天守台を含めた旧鶴ヶ城跡地は鶴ヶ城公園として整備され、城下町の面影を残す庭園や道路跡が残ります。園内には約1000本のソメイヨシノが植えられ、4月になると桜が満開となり多くの花見客で賑わいます。城と桜の景色は美しく、鶴ヶ城は日本の「さくら名所100選」にも選ばれています。また秋には紅葉も鮮やかで、一年を通して四季折々の景観が楽しめるスポットとなっています。
まとめ
鶴ヶ城は会津の歴史を物語る城として、築城以来さまざまな歴史の舞台となってきました。戦国時代には葦名氏や蒲生氏、加藤氏らが城を築き守り、江戸時代には会津藩主の居城として栄えました。そして戊辰戦争では必死の籠城戦を繰り広げた悲劇の地でもあります。廃城ののちに市民の手で復元され、今は赤瓦の美しい天守閣として往時の姿を伝えています。鶴ヶ城の歴史を事前に知っておくことで、会津若松を訪れた際に城郭を見る目がより深まることでしょう。

下郷町ライブカメラ
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